銀色の月光。
闇を包む光は冷たく、透明だ。静寂と共に降り注ぐ暖色の陽光とは似ても似つかない夜の光。光量も控えめなそれは冬でなくとも冷たい色をしている。色味を帯びたとして尚温度を持たぬ光。今宵は仄かに色づいただけの銀色だ。
木々の途絶え、開けた空間に足音もなく一歩踏み出した光が一つ。地上に落ちた月のように輝くそれ。空を伝い落ちた月光を縒り合わせたかのように、そこだけが闇の中にもはっきりと輪郭を纏う。光沢を帯びた艶やかな毛並みの先端、細い毛先が月の光を悦ぶようにふわふわと踊っていた。柔らかくも、帯びた銀の光沢が何処か鋼を思わせる毛並み。闇の中から全身を現したそれは緩やかに尾を揺らし、銀蒼の相貌を空へと持ち上げた。
姿形は狼と呼んで差し支えないだろう。ただ、それは狼でないことも同時に明白だった。何が違うと問われれば筆頭に毛の色が挙げられる。獣が象るのは、冬化粧の白とはまた異なる銀色の姿。狼はこのように光を帯びる毛並みを持ちはしない。しかし、それ以前に根本が異なる。論ずるならば何が狼と異なるかではない。それは狼と似た姿を象っているだけの別の何かであると、姿を見た者ならば本能で理解するだろう。これは、陽光の下に生態系を形成する生き物ではない。
狼よりも一回り以上は大きな体躯のそれは、一頭だけで佇んだ。周囲に別の個体がいる気配はない。単独で、悠然としている。狼とは違い、群れを持たないのだろうか。はっきりとした銀の輪郭の外側が、朧に光って見える。その様は、空で月が光の層を纏うのと似ていた。

闇色の空に浮かぶ月の輪郭は丸い。月の満ちる夜だ。月明かりに輝く獣が、心地よさそうに首を振る。欠けることなくその身を晒した月を、雲が緩く弧を描いて抱いている。月を侵すことはせず、間に闇を挟んで揺蕩う雲影。黒い雲の縁は淡く月光に染められて浮かび上がっている。
冷涼な銀色が降り注ぎ、見守る夜の世界。
月は自らが育む世界を黙して見下ろす。手を伸ばさず、声をかけず、ただ恵みとしてそこにある。陽光を恵みとして昼の世を生きる者にとっては冷たいそれも、夜に抱かれて生きる月影の申し子にとっては揺り籠のような温もりだ。まどろむには少々、彼らを疼かせるきらいがあるけれど。

銀蒼の相貌が、月を離れる。ついと流れたそれは夜空を半周し、ぴんと立った耳が遠方を探った。
辺りは静寂に包まれ、微かに流れる風が葉擦れの音を微かに流すに留まる。そこにはっきりと捉えられることで、逆に静寂を強調するような音。その遥か奥に何を聞き取ったのか、それは回していた首を元に戻すと歩みを再開させかけた。

その歩みが、一歩と踏み出されずに止まる。ぴくりと、それは耳を震わせた。ざわ、と辺りの気配が変わる。変わったのは銀色の獣だ。獣が静寂を捨てた。牙を見せ、毛並みが夜風に緩く逆立つように見える。銀蒼の瞳にもう一種、銀の光が差し込む。それだけのことで辺りの闇がざわめいた。葉擦れの音は静寂ではなくざわめきとなり、驚いたか怯えたか、生き物のざわめく気配も見受けられる。
ゆるりと、それは自らの尾を追うように身体を反転させ、次の瞬間には微かな月の光を残して消えていた。



木々の合間を月影が流れている。銀色の光が、迷うことなく森を縫う。それは巧みに幹をかわし崖を飛び越え湖面を駆け抜けながらまっすぐにただまっすぐに一点を目指した。彼らの駆ける速度は月明かりを恵みとする生き物の中でも極めて速い部類である。それに加え、彼らの疾駆は非常に静かなことで有名だ。音も無く闇を駆け、ただそこに纏う月光の尾だけを痕跡として残す。一見光が流れたようにしか見えぬそれを称して夜光と言う。



森が開けた。

高速で視界を過ぎゆく幹と枝葉が突如消え失せ、月光が直接に降り注ぐ。瞬間、鼓動が高ぶるのを感じて更に加速する。状況は視野の広がった一瞬で把握し終えていた。相手は実質一体。こちらに気づき、頭を巡らせかけている。他は雑魚だ。眷族か、傀儡か。
そして、それらを冷たく見下ろす光。
紅の相貌。
こちらを見もしない主は、しかしやはり満ちた月の光にほんの微か高ぶっている。身体の奥底で感じるその波長に、熱に浮かされるような疼きが首の後ろを撫でた。



光は、突き抜けるように森から飛び出すと一瞬姿を消すような加速を見せた。感じていたその疾駆が、その瞬間飛躍的に速度を高める。多分に漏れず、満ちた月の恩恵に高まっているのだろう。集団の最後尾に立つ相手をあざ笑うかのようにその傍らを素通り、その眼前で銀色の獣は牙を剥いた。正しくこちらの意図を理解しているわけではないだろう。だが、正しくこちらの望む通りを体現する。集団を相手に行われるまるで一方的な狩り。月光を受けた牙は一噛みで相手を闇に還し、喰い荒らすかのように手当たり次第に次の獲物を求めて跳ね回った。まるではしゃいでいるかのようなそれに、ガキか、と唇が象る。瞬く間、眼下の群れが霧散する。運良くしてか悪くしてか即死しなかったものも、血溜まりで数度痙攣すると闇に還った。
煩わしい雑魚の気配が消え、眼下に残るのが手付かずの一体のみとなるまでにさほどの時間も要さなかった。退屈を覚える間が無いのは良い。
光は視界から消えた。もう、崖を登りきって傍らに添うだろう。鮮やかな手並みを誇ることも無く。
赤い数字が並ぶトランプの上に一枚落とされた大きなスペードといったところか。
雑魚を蹴散らすのに数は要らない。
微かに口端を緩める。
眷族は数ではない。
眼下に一人残された男は、やや見開いた眼で瞬くと、苦笑とも不敵とも取れる笑みに口元を歪めた。自らの眷族で俺に歯が立つなどとは思っていなかっただろうが、それが全てこちらの眷族一頭に滅されるとも思っていなかったろう。
舐めるな
微かに動かした唇は、相手に伝わっただろうか。

























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